忘却の美
私が忘れられるとしたら、それは私のせいでなく、私を忘却したその方が 忘れた という行為の主格、主語である。
そして、忘却した時点で忘却した方は、忘却したことすら認識していないことを、忘却という現象は前提としている。
自分が覚えていても、相手の方は忘れていたとしても、私はそこに寂しさも哀しさも覚えないだろう。
なぜなら、たとえある思い出の共有者であっても、相手が自分と全く同じように、その思い出を心に描いているとは限らないから。
自分の心でさえ紛い物だと思った方が良いと私は思っているのに、他人様の心や記憶や、自分に対する心象など、私は覗いてみる気には全くなれない....
しかも私が想う私も、真に私を捉えていると、私は思うことができない。
ましてや相手が私をどう描こうが、それは私の一側面に過ぎないのではないか?
そんなことを想うと、相手が私をどう描こうが、あるいはどうにも描かずすっかり私を忘れようが、私にはさして重要な問題とは、、、、どうしても思えない。
その土地を離れてしまえば私はどんどん忘れ去られる存在でしかない。
この世を離れたって同じことが言える。
そこに悲しみも哀れさも私は見たり、感じたりすることができない。
忘却されることを哀れなどとは決して思わない。
忘却ほど美しい精神作用はない とさえ想う。
なぜなら、人は死んでもゼロにはならないと
私は私の何処かで知っているからだろう....